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天満製鈑の歩み HISTORY

受け継がれる品質へのこだわりと、
匠の技術が光ります。

お客様の声を具現化してきた、
天満製鈑事業部の80年の歩みをご紹介します

1938
赤レンガ館はもともと天満紡績の工場として完成、合併により1900(明治33)年に大阪合同紡績天満工場となった。1931(昭和6)年、大阪合同紡績が吸収された東洋紡績の工場となり、1938(昭和13)年に中西金属工業に移った。
赤レンガ館と並んで本社棟も明治期の建物。1階が石造風、2階はタイル張り、屋根が寄棟造桟瓦葺という和風づくり。天井が高く、階段は急勾配、手すりまわりの古風な意匠などに、明治の香りが漂う。 建築1886(明治19)年 大阪・天満の本社にある赤レンガ館
1941
圧延部門の新設
当社はベアリングメーカー各社の増産に必要なプレスリテーナーの供給に全責任を持つことになった。
しかし、体制は整ったものの、ここで思わぬカベに突き当たる。
次第に深刻の度を増していた資材の入手難がここにきて一段と拍車がかかり、プレスリテーナーの主要な材料である鋼鈑の供給に支障が出始めたのである。

ベアリングメーカー各社にリテーナーを全責任をもって供給する使命を負わされた当社にとって最初にぶつかった試練期である。

当時、専務の座にあった中西義雄はこの打開策として鋼鈑を他社に依存していてはリテーナーの安定供給の使命は果たせないとして、リテーナー用鋼鈑の自社生産を思い立ち、圧延機と熱処理設備の設備計画を立てた。

しかし、ここで第二のカベに突き当たる。
商工省金属局が既存の圧延業者保護と新規設立を排除するとの同省の方針に反するとして当社の計画に容易に首をタテに振ろうとしなかったためである。中西義雄専務の精力的な陳情工作が開始された。

そのエネルギッシュな活躍ぶりと、商工省に対する熱意ある説得ぶりを当時の商工省機械局精密機械主席技師の鈴木平氏は次のように述懐する。
「中西義雄氏のプレスリテーナーをベアリング各社に安定的に供給しなければならないという責任感と、そのためには圧延設備を持たなければならないという信念、さらに再三にわたって大阪から商工省に出向いてこられる熱意に動かされて私が金属局との交渉に当たった。交渉に際しては三省協定を前面に出して、プレスリテーナーは全面的に中西軸承金属工業(旧名称)に依存しているのに、リテーナー用鋼鈑の供給は残念ながら円滑さを欠き、このためベアリングの生産増強に影響が出ているので、中西軸承の計画を認めるべきであるという戦法をとった。
また、鋼鈑の供給は数量的に不足しているばかりでなく、リテーナー用鋼鈑に絶対必要な適寸が入手困難である。市販品の規格は不ぞろいでああり、またリテーナー用鋼板には特殊技術が必要であり、特殊熱処理加工をほどこさなければならないのに、なかなか要望を満たして貰えない。
自社設備を持てばこれらの問題を解決できるだけでなく、端材の活用で数量不足を補うことが出来るとも述べた。かなりの日数と時間をかけた交渉のあげく、ようやく金属局が重い腰を上げた。
こうして昭和16年12月12日の三省打ち合わせ会議で中西軸承の圧延部門設置が正式に承認された。中西軸承が圧延機と熱処理設備を持ったことによってプレスリテーナーの供給が軌道に乗り始めた。」 賠償工場指定により河内工場に駐留した米国軍政官。後列右から4人目が中西義雄社長(1946年)
1950
これで鋼鈑入手に気遣うことなく、念願のリテーナーの安定供給の責任を果たせる事になったが、圧延部門は1950(昭和25)年5月「天満製鈑株式会社」(資本金1,000円)として分離独立、戦後の日本経済の復興期、あるいは当社の再建にも大きく貢献することになる。
2021
圧延部門設立から80年、長年に亘る経験と実績を持ち、確かな技術で産業界に貢献してきた。
高い技術力と受注生産方式の体制により、サイズや用途、納期、ロットなど、お客様の多様なニーズにフレキシブルに対応している。
普通鋼をはじめ、特殊鋼、ステンレス、チタンに至るまで巾広い材料を加工する技術力を持ち、加工性および強さのコントロールも可能、また大手鉄鋼メーカーでは取り扱っていない板厚や硬度、高張力の製品加工にも対応している。
中西金属工業株式会社・天満製鈑事業部の鋼鈑は、品質基準の最も厳しいとされる高速鉄道車両用ベアリングリテーナー材をはじめ、各種自動車部品材やその他あらゆる産業用部品材として広く用いられており、産業界で高い評価と信頼を得ている。 2021(令和3)年竣工 神戸に移転した新工場